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カトリックと大名達

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剣豪の将軍(京都)

1559年 ガスパル・ヴィレラ神父とロレンソ修道士(日本人)の謁見を許し、将軍として初めて布教許可状を出す。

 

異文化交流の達人(山口)

oushi

1550年 フランシスコ・ザビエルを引見し、領内での布教活動を許し、領内の大道寺を住居兼教会として与えた。

フランシスコ・ザビエルは、来日して、初めてのクリスマスを山口で祝った。

山口は、クリスマス発祥の地!!

カトリックの守護者(大分)

otomo

1551年 山口からザビエル神父を招き、洗礼を受けた日本で最初の大名。

日本初の西洋医学のアルメイダ病院を設立。カトリックの布教に尽力し、日本で初めて大砲(国崩し)を戦に使用した。

大分は、キリスト教発祥の地。

カトリックの信奉者(長崎)

arima-omura

1580年 日本初のセミオリオ

(小神学校)を開設。

天正遣欧使節の四少年は、

ここで勉学に励んだ!!

日本カトリックの本拠地

世界と向い合った漢

(愛知・岐阜・滋賀・京都)

oda

 

1569年 二条城の普請場でルイス・フロイスを引見し、カトリックを知る(1569年はマンショ生誕の年)。

岐阜にてルイス・フロイスと再会したおり、信長が自ら膳を運び接待する。

アレッサンドロ・ヴァリニャーノ日本巡察師父を引見し、天正遣欧使節の許可を出すとともに、「安土城之図」の屏風を託し、ローマ法皇に贈呈する。

肥前と安土にセミオリナ開設を許可する。

真の愛国者

(愛知・岐阜・滋賀・京都・大阪)

toyotomi

1587年 日本人が奴隷として売られている事を知り、バテレン追放令を発布する。

しかし、信仰は許可した。

1591年 天正遣欧使節の帰国を祝い、歓迎パレードを催す。

秀吉公は、盛大な歓迎パレードを催すために、都の奉行及び増田右衛門に、マンショ達が必要とする物を贈呈し、尚且つ、その宿舎には警護をつけさせた。

また、聚楽第の完成を急がせ、パレードの道を清めさせた。

諸々の準備のために、80日間、引見を延期し、善美を尽くした饗宴の準備を命じ、尚且つ、日本の主たる諸侯に接待と贈物をするように命じた。

謁見の日(1591年3月3日)、秀吉公は、関白の衣冠を着て、威儀を正し、通常礼装の諸侯と共に、マンショ達を待った。

増田右衛門は、日本風に飾った馬と、アレッサンドロ・ヴァリニャーノ巡察師父及び、2人の随行員のために、高位の仏僧の用いる雅な輿を3つ届けた。

行列の先頭は、インド副王の贈物であった。

金で塗装した美しいミラノの船(ミラノの船が装飾された金の鎧2領ではないか)、金銀で装飾した大剣、長刀の形をした精巧な鉄砲、美しい最新型の鉄砲、美しい模様を細工した皮四枚、立派な天幕、ビロードと銀具によって飾られれたアラビア馬、であった。

秀吉公は、これらの献上品を大いに喜び、珍しげに、一つ一つを眺め、賞美し、遠き国より珍しい物を献上してくれたことを褒め称えた。

インド副王の贈物の両側には、美しい衣裳を着たポルトガル人の騎馬兵2名がつき、その後、侍童が数人騎馬で続き、その後、ローマ法皇から贈られた衣裳に身を包んだマンショ達の姿があった。

その後、巡察師父が続き、最後に、ポルトガル随行員が続いた。

宿舎から聚楽第まで全ての道には、人々が満ちあふれ、都始まって以来の、珍しい行列みたさに、人々は競って、見物に来た。

謁見の間は、金及び美しい絵画で飾られ、ヴァリニャーノ神父は、謁見する前に、インド副王の書簡を呈した。

この書簡は、内部を金の布で貼り、緑のビロードに、金糸の刺繍や銀の花模様を施した物であった。

羊皮紙に記され、金の印が押され、絹の袋に包んであった。

礼儀に厳しい、日本人に対して、副王が命じた書簡であった。

書簡の内容は、以下の通りである。

『我国は遠く離れているため、今日まで友好を交わすことがなかった。

しかし、殿下の諸国に住む神父達の書簡によって、殿下の大勝・剛勇・名誉その名は、遙か遠い我国にまで届いております。

殿下は、日本全ての諸侯及び諸国を従えたことは、今日まで知らず、この大業は、神のお恵みの奇跡であり、大いなる驚嘆です。

また、神父達は、殿下の恩恵を多く賜り、その恩恵の栄光を持って、彼らの規則に従い、福祉の掟を布教することが出来ます。

彼らは、善良なる神父で、世界の至る所に、福祉の真の道を教えるものです。

このことは、私の大いに喜ぶところです。

彼らは、私の書簡を殿下に呈し、並びに、感謝の意を伝えるために使者を遣わすことを求め、私は、大いに喜んで、承諾し、殿下が兼ねてより知る、ヴァリニャーノ神父に使命を委ねました。

私は、この書簡をもって、殿下に願います。

今後もさらに、巡察師父並びに日本にいる神父達に、恩恵を与えて頂けることを、そうなれば、私は、大変嬉しい。

親愛の証として、刀2口、新型アルキブジ鉄砲一艇、鎧2領、馬2匹並びに馬具

インドより (この書簡の日本語訳と共に)

1587年 ドン・ドゥアルテ・デ・メネーゼス 』

この書簡を日本語に訳されたものが、錦袋に収められていた。

一行は、侍従に導かれ、居並ぶ諸侯の間を通り、関白の御前に進み、ヨーロッパのマナーで帽子を取り、三度、関白に敬礼し、座した。

関白と諸侯は、一行の丁重なる様その儀礼に、大いに満足し、関白は杯を取らせた。

関白が用いた杯は、彼らの国より贈られた、大きからず、高からず、黄金や各種の技巧をもって装飾された杯であった。

関白は、その杯を三人の有力諸侯に順々に取らせ、巡察師父には、自らの手で肴を与えた。

関白は、巡察師父に、銀百両と絹衣四領を与え、二人の神父には、銀百両と絹衣二領、そして、マンショ達四少年とその他のポルトガル人に銀五両と絹衣一領、通訳した二人の修道士に、銀三両と絹衣一領を与えた。

総額 2494ドゥカーティ(現在の価値で、2億5千万~5億円)

これは、全て関白の類のない、恩寵であった。

マンショ達は、関白の御前にて、音楽を披露するのである。

曲名は、ジョスカン・デ・プレ 千々の悲しみ(皇帝の歌)

秀吉公は、何度もアンコールしたとのこと。

その胸中には、安土のセミナリオで、亡き信長公ともに聴いたヨーロッパの調べを想い出しつつ、信長公を偲んでいたと思われる。

秀吉公は、マンショに仕官を勧めるが、マンショは、「秀吉公が、信長公を裏切らなかったように、私もお世話になった方々を裏切ることは出来ません」と言って、仕官を断った。

マンショのその姿を見た秀吉公は、「天晴れ!」と賞賛したのである。

最後に、秀吉公は右大臣、菊亭晴孝を通じ、ヴァリニャーノ神父に今回の来朝を喜ぶ旨を伝え、且つ、遠くから来て頂いたのに、内続く戦のために、都が望ましい姿になっていないことを伝えさせ、今後、都を美しくすることを強調した。

インド副王とは、さらに、親交を深めることを要望した。

ヴァリニャーノ神父は、秀吉公の要望に対し、度々の恩寵に感謝し、殿下の名声、その領土の広さを賞賛し、この事を副王に伝えると述べた。

秀吉公は、ヴァリニャーノ神父の言上を聴き、贈物の礼を述べた。

以上

この謁見には、もう一つの顔があったと考えられる。

秀吉公は、1587年7月24日にバテレン追放令を発布しているため、外国人神父の入国を禁止していた。

そこで、黒田勘兵衛、高山右近、小西行長、錚々たるキリシタン大名は、知恵を絞ったと考えられる。

関白秀吉公の体面を守り、ヴァリニャーノ神父を入国させるため、尚且つ、命がけの使命を果たした四少年を迎えるためには、インド副王の名代として謁見させることを考えたのである。

また、キリシタン大名達は、バテレン追放令の見直しを、秀吉公に考慮させる機会と捉えていたと考えられる。

その結果、上述したとおり、盛大な歓迎パレードとなったのである。

これが、天正遣欧使節帰国の全貌です! マンショ Coool!

バテレン追放令五ヶ条

口語訳

一、植民地政策を許さない

二、信仰の強要を許さない

三、他宗教の迫害を許さない

四、牛馬を食べることを許さない

五、奴隷売買を許さない

 

右手に聖書、左手に鉄砲を持って布教する姿勢を見てとった秀吉はバテレン追放令を発布する。

この五箇条を秀吉公は、カトリック日本管区長ガスパル・コエリョに詰問した。

しかし、コエリョは、

「傲慢な態度で、火薬欲しさに日本人を売る大名がいるからであり、彼らを厳罰すれば解決することではないですか」と答え、秀吉公の怒りを買った。

高山右近や多くのキリシタン大名の制止をコエリョは聞き入れず、長崎の茂木要塞を強化するため、武器弾薬を増強し、フィリピンのスペイン総督に援軍を要請した。

このことを知ったアレッサンドロ・ヴァリニャーノ神父は、高山右近の失脚、秀吉公の長崎接収の情勢の変化を見て、戦闘準備を秘密裏に解除させた。

信長存命の折に、秀吉公は、堺の商人より情報を得て、カトリックは宣教師を送って、その国をカトリック化し、次に軍隊を送って征服し、植民地化する政策であると信長公に注意を促していた。

天正遣欧使節見聞録では、行く先々で日本の女性が、どこに行っても多く目につき、ヨーロッパ各地で五十万という数であった。

肌白く美しい日本の娘達が、秘所まるだしに繋がれ、弄ばれ、性奴隷化され、転売されていくのを正視できなかった。

鉄の鎖を嵌められ、日本人をこのような遠い地に売り払う者へ、秀吉公は憤った。

白人文明でありながら、何故、同じ人間を奴隷にするのか。

ポルトガル人の教会や師父が火薬と交換し、インドやアフリカまで売っている。

火薬一樽で、五十人の娘達が売られていた。

朝鮮出兵従軍見聞録では、キリシタン大名・小名・豪族は、火薬欲しさに娘達を南蛮船に運び、獣の如く縛って、船内に押し込み、娘達が泣き叫び、喚く様は、地獄の如しと書いてある。

また、キリシタン大名である大友・高山・有馬・大村氏は、神社仏閣を焼き、墓石で城の普請を行い、信仰の迫害を行った。

よって、秀吉公はバテレン追放令を発布するのである。

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